意味喪失時代の教育
現在は「伝統的価値が崩壊しつつある」言われますが、このような時代において、なお生きる意味を見出すことができるでしょうか?
私は、それは可能であると答えたい。
生きる意味は、人それぞれ独自なものです。なぜなら人生の状態は、それに当面した人だけのものであり、刻々に変化してやみません。
もしこの一瞬一瞬の人生の意味を十分に生かしきり、実施できるならば、私は今の瞬間を永遠化できたことになります。
こうして充実した今の人生を「過去」という倉庫に大切にとどめれば、誰も外から奪い取ることは出来ないわけです。
ソクラテスの方法
ここでいう「生きる」という意味は、知識を教えるように人に教えたり、また人から教えて貰えるものではありません。というのは、意味はめいめい自分のものにして、自分でそれを生かすべき性質のものだからです。
そこで教師の出来ることといえば、研究でなり、心理の探求でなり、偉大な目的に向って生きている意味実現の生の実例を生徒に示すことです。
教師には、自分が生徒の前に生きた見本になることのほかに、苦しむものが自分の力で意味を発見できるように脇から間接的に助けてあげることが、使命として課せられていると思います。
間接的な援助は、ギリシャの哲人ソクラテスが、自分の方法を心理把握を間接的に促す産婆術といった考え方と同じです。
私の行っている治療法もこれと同じ考え方から出されたもので、それだからこそ敢えて「意味に基づく治療」ということを示すために"ロゴセラピー"という術語を用いているのです。
悲劇を勝利に
愛する妻を亡くした老紳士が、意気消沈して相談に来たことがあった。私のしたことは、もし奥さんでなく逆に貴方の方が先に死んで居たらどうなるか、と質問することであった。
彼は私のこの質問を契機にして、妻が夫を失って嘆き悲しむべきところを、反対に自分が生き残って苦しむ妻の立場になり代わり深く悲しむようになっているのだと、大きく考えを変えるようになった。
そう考えることによって老紳士は自分のみに降りかかった悲痛の意味、犠牲の意味を自分で明瞭にし、悲劇を勝利に転じ得たのである。
貴方の人生の目的はこれである。ということを苦悩するものに言ってあげることは出来ないが、人生には貴方にとって独自な意味がある。
ということは示してあげられる。たとえ不治の病、打開し得ない限界状況に陥っている場合ですら、人生の意味は失われないのである。
この老紳士の場合のように苦境を成功に力強く変えることができるからである。また、この例から教師や治療者が苦しむ者に対してとるべき態度、方法がまさに産婆術であることも理解されよう。
麻痺した主観とは別
今まで述べてきた私の説明から、生きる意味を全く個人的なもの、主観的なもののように私が決め込んでいる。と取られるなら、それは大きな誤解である。
そうではなく、意味は人と神に関りを持つ客観的なものだと私は信じている。この点は極めて重要である。
アメリカのヒッピー族の間では、LSDと呼ぶ幻覚剤の使用が流行している。LSDを飲む人々は薬を飲んでっとりし、幻覚の中で自分なりに生きる意味を見つけたつもりでいる。
だがこれは全く個人の麻痺した主観における意味であって、私の言う本当の客観的な意味、つまり生きがいではない。
カリフォルニアの学者が遣った面白い動物実験がある。ネズミの野脳髄に電流を通じると性欲と食欲の欲望という生物の根源的な欲望が満足させられる。
この実験を重ねるうちにネズミたちは自分でスイッチに乗って電流を通すことを覚えた。しまいには、一日50回もそれを繰り返すようになった。
ところが、その結果はどうか。ネズミたちは本当に飲んだり食べたりすることを忘れ、セックスすることも忘れてしまったのである。
この二つの例は、真の生きる意味が麻痺した主観の中にあるものではないことをよく証明している。
そこで本当の生きがいが客観的であるという訳をはっきりさせなければならないと思う。
そのために実例を挙げて考えてみたい。
ある自殺志願者の婦人
夜中の3時に突然私のところに電話がかかってきたことがある。
相手は婦人で、今から自殺するつもりだという。多分そう言ったら、この私が何と答えるかに興味を持っていたのであろう。
私は30分も彼女と電話で話をした。最後に彼女は自殺をしないで夜が明けたら私の病室に来ると約束して電話を切った。
さて、夜が明けてから、その婦人は私にこういったものだ。
「電話で聞かされた貴方のお説教には、何の感銘も受けなかった。私が感銘したのは夜中の3時という時間に見ず知らずの人間が掛かってきた電話に腹も立てずに30分もの間、長々と相手をしてくれた貴方の忍耐強さです。この様なことがありうる世の中なら、まあ、もう少し生きていてもよかろうと思うようになった訳です」。
これは、彼女が私との人間関係の中で生きる意味を見出した証拠である。この関係の中にあるという観点から、本当の生きがいは客観的なものだということが理解されるだろう。
最後に、現代の教育の根本的な任務は、人間の良心の開発におかれるべきということを強調したい。
なぜなら、目覚めた良心があってこそ、初めて意味あるものと無意味なものとを選択することが出来て一人一人の人生に意味が生まれることになるからである。
意味あるものは、人間関係の中にある。だから、この選択は他の者への責任感と決断力に掛かることになる。
生存の意味を求めて
現代は、キリスト教でいう十戒の教えが効力を失いつつある時代ともいえよう。しかし、例えこの古い教えの力が消えようとも百万の異なった状態における百万の新しい新しい教えが見つけられねばならない。
それを可能にするのが、各人の良心である。この良心の権威を確立することが出来れば、他人の遣ることに従う追随主義にも、お仕着せの型に無理矢理に自分を押し込めてしまう全体主義にも抵抗出来る自発力が起こって来るはずである。
我々は、ただ生存のために戦っているのではない。戦うのは、生存の意味を求めるためである。この戦いは、必然的に戦う者の間の連帯を生むであろう。
その連帯は、一つの神の基に心を一にする形であったり、全人類は一つであるという一体感の自覚の姿をとったりするのではないだろうか。
※ビクトール・E・フランクル博士 国学院大学の公開講演会要約文抜粋