心理的空虚(実存的空虚)
欲望を満たしても残る空虚感・無感動

フロイトやアドラーのような、かっての世界的な精神分析学者が問題にした性満足への意思や地位を得て他人に優越したいという欲求は、今日の若者とりわけアメリカの青年や学生にとっては解決済みで、いまさら問題にならない状況になりました。
それにもかかわらず「自分たちが主体的に生きようとする時に生き甲斐の感ぜられない深刻な状態が生じている」と、ジョージア大学の学生新聞の編集者が私に手紙をよこしました。

いろいろな欲望を満たされながら、なおそこには空虚感や無感動が残るということです。
私はこのような人間の状態に「実存的空虚」という名を与えたいと思います。 このことは、病院や相談所へ訴え出てくる多くの患者を見ると、全世界的な現象だということがわかります。
現代人の多くは、生きる意味、生きがいを喪失した状態に苦しんでいます。
このような状況は自由主義諸国だけのものでなく、鉄のカーテン内の国々も同じです。ソ連の精神病学者たちも、私がこれを語ろうとする私独自の精神療法を取り上げざるを得なくなっている事実がいい例です。
人々が生きがいを喪失した原因
生甲斐喪失の原因
人々が生きがいを喪失した原因は三つあります。
一つは「他の動物のように本能だけで生きているものではないこと」です。
「主体的な意味を見つけたい」という願いがありますから、この次元での問題を本来持たざるを得ないわけです。
第二は「古い道徳や伝統的な価値が崩れつつあること」です。
かつては、これらのものが人々に「行動せよ」と教えてきたが、今ではその基準が壊れ、何をよりどころに行動したらよいか、人々はあてどもない荒野に放り出された格好になり、何を欲し何をしたら良いか、全くわからぬ状態に立ち至っています。
この結果「他人のやることを自分もやる」という、他人追随主義が生じました。アメリカに見られる若者がその傾向です。
また「権力者に黙って従っておればよい」という全体主義の生き方も生じました。共産圏や独裁主義国家に見られるものがこれです。
いずれも自主的な生き方が、一人一人に堅持されていないために生じた現象であることは共通しています。
第三の原因は「人間を捕まえる近代科学の弊害」によるものです。
たとえば、人間は猿から進化したという見方から出発して、猿同様の生体としてのみ人間を見つめ、あるいは機能的に電子計算機に似ているといった風に、ある固定した姿に人間を還元して考え、そこで人間の問題を解決しようとしてきたことです。
日本の諺に「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、森にたとえられるような複雑な動態である人間を、静止した一本の木に還元してみるというところに誤りがあります。
この意味で、第三の原因は近代の学問や教育の及ぼした影響が大きいといわざるを得ません。
人間には「力強く行動すべき目標」が必要
心理的空白を埋める生きがい
これらの原因によって生きがいを失い、病的になった者の調査をオーストリアで行ったことがあります。
この調査によると、なんと25%の者が、この種の意味喪失感に陥っていることがわかりました。
同種の調査をアメリカで行ったら60%という驚異的な数字が出たし、プラハの学生に至っては、さらにアメリカを超える高率を示しました。
ところが、ドプチェクによる自由化運動いわゆる"チェコ"事件が起きてから、この比率が著しく少なくなりました。
これは彼らが共に力強く行動すべき目標、つまり生きがいを見つけ、このために実存的空白が見事に埋められたということです。
意味に基づく治療で「生きる意味」を発見させる!
ロゴセラピー
普通は精神科で扱い、通常の医学的処置を施すノイローゼ患者は、病院に来る者の中の80%ぐらいで、残りの20%は、ただの医学的処置ではどうにもなりません。
心理的空白のある人々、生きがいを喪失した人々です。「彼らに対して、いかに医師が立ち向かうべきか―――」というのが、私が創案し、主張してやまない心理療法なのです。
私のやり方が患者に生きる意味を発見させ、その意味実現に赴かしめるものだと信じています。
患者にとっては、ただ一回限りのこの世であり、たとえそれが、どんなにつらく苦しく、時には手の施しようもない苦難に満ちたものであっても、死の瞬間まで自らの命を自分自身で生きがいあるものにすることが大切です。
私の療法は患者にそうさせる療法です。ギリシャ語で意味のことをロゴスといい、治療のことをセラピーという。だから、私はこの方法を「ロゴセラピー」と呼んでいます。
遠回りしながら目的地にたどり着く!
逆説的意思を助長
このロゴセラピーは信念ある人間観、世界観を前提とし、それらとシッカリ結びついています。それが私の先輩であるフロイトやアドラーたちの立場、すなわち人間哲学を抜きにした精神分析と違うところです。
意味喪失が全世界を覆う現在において、人間が感動を持ってよみがえるために、さらには教育の本質にみずみずしい命を与えるために、私は私のやり方が生かされるべきだと信じています。
ロゴセラピーの生きた応用を私は亡くなったケネデー米国大統領の発言の中に見出すことができます。
彼は「あなた方があなたの国から何をして貰えるかを問うべきでなく、あなた方があなたの国に何をすることが出来るかを問うべきである」と言いました。
私は、これと同じ発想の言葉を、今から10年も前に「夜と霧」の名で知られる私の体験記の中に記しています。
「ロゴセラピーは逆説的意思の助長を特徴とする」と言ってよいでしょう。
たとえば、広場や学校に行くことを恐れる広場恐怖症、学校恐怖症の者に、広場や学校に行きたくてたまらぬように勇気づける。
その場合、広場や学校に直接向う道を避け、むしろこれらの場所に背を向ける方向を歩ましめ、一回りして違った方向から、これらのところへ自然に辿り着くようにするやり方です。つまり逆説的志向による方法です。
大きく事由に自分を拡充させる!
自己超越への道
まともに"幸福"自体を求めると、それが得られないとなると、かえって人々は不幸な感じに陥ってしまいます。
しかし、逆説的志向の方式で、この"幸福"自体に目を向けるのでなく、むしろ力強く生きる使命の実現――たとえば、ある仕事を完成したり、ある人を愛したりする――に集中すると、自然に"幸福"が付随して生まれてくるものです。
したがって問題は「自己拡大」ということになるでしょう。いつでも生きる意味を追求し、その実現に全力を尽くします。その対象は時には仕事、時には愛人であったりもするでしょう。
しかしそれは、下半身の欲望充足だけに小さく自分を閉じ込めることではなく、意味を実現させるための意志へと大きく自由に自分を拡充させることです。この姿を傍から見れば「自己超越」ということになるでしょう。
※ビクトール・E・フランクル博士 国学院大学の公開講演会要約文抜粋